当ブログは第二保管庫のためレスポンスは極端に遅いです。 トラックバックやコメントは本家の方にお願いします。 2005年 06月 27日
■まぁなんつーか一向に思考回路が進化しないですね。 とりあえずその前島の位置でも確認してみましょうか。 ・・・無防備と言うより無視と表現した方が適切かも知れませんね。 見れば分かりますが地理的にこれと言って特徴のない島です。 例えば同じ慶良間諸島でも隣りの座間味や渡嘉敷の方が島が環状になっているので艦船の泊地に利用できます。 逆に反対側を見れば沖縄本島から10kmと離れていない神山島は砲兵陣地に利用できる-米軍の野戦重砲である155mm加農砲M2「ロングトム」なら射程23km-のでまぁ言ってみれば前島はエアーポケットのような島です。 実際に米軍の沖縄侵攻は3月26日の慶良間諸島上陸から始まり、本島上陸前日の3月31日0800には神山島-日本側配兵なし-に上陸を開始し夕刻には同島に砲兵二個大隊-155mm加農砲24門-を推進し那覇・小禄方面を射程に収めると共に射撃を開始します。 そして運命の4月1日の沖縄本島上陸を迎えるわけです。 そして今回もいつもの如くどうでもいい方向に話が行くわけですがw 今回は沖縄本島の話はおいておいて今回は慶良間列島の話です。 慶良間列島の戦いのみならず、沖縄戦を語る上で必ず語られるのが「軍命令による集団自決」ですね。 特に渡嘉敷島に配備されていた海上挺進第3戦隊の赤松嘉次大尉は同島民約400名に自決命令を下したとして「鉄の暴風」(沖縄タイムス社)に書かれた為に、この「鉄の暴風」が誤った既述や語弊、誤謬、伝聞、体験談などが虚実混沌としたまま沖縄戦のバイブルとして扱われた為にこれを参考にした沖縄県史-特に8・9巻-や各書籍に引用され、「神話」となったわけです。 結論から言えば慶良間列島の集団自決は軍命令によるものではなく自然発生的なものであったと言うことになります。 当時慶良間列島には 座間味島 ・海上挺進第1戦隊(球16777) 指揮官梅澤裕少佐 ・海上挺進基地第1大隊(暁16788) 指揮官小澤義廣少佐 →20.2.17臨時独立第1大隊改編本島へ移動 ・特設水上勤務第103中隊(球8886) 指揮官市川武雄中尉 第二・第三小隊欠、将校・下士官・兵40名、朝鮮人軍夫約300名 阿嘉島 ・海上挺進第2戦隊(球16778) 指揮官野田義彦少佐 ・海上挺進基地第2大隊(暁16789) 指揮官古賀宗市少佐 →20.2.17臨時独立第2大隊改編本島へ移動 ・特設水上勤務第***中隊(資料不足にて不明) 渡嘉敷島 ・海上挺進第3戦隊(球16779) 指揮官赤松嘉次大尉 ・海上挺進基地第3大隊(暁16790) 指揮官鈴木常良少佐 →20.2.17臨時独立第3大隊改編本島へ移動 ・特設水上勤務第104中隊(球8887) 指揮官中山忠中尉 一個小隊-将校・下士官・兵13名、朝鮮人軍夫210名-のみ配備。 と言う部隊が配備されていました。 「海上挺身戦隊」というのは簡単に言えば陸軍の「○レ」(マルレ)という特攻モーターボート部隊で「海上挺身基地大隊」と言うのはそれの支援部隊です。 海上挺進戦隊は戦隊長以下104名とマルレ艇100隻からなり、各部隊は 海上挺身戦隊(球16777~9) 戦隊本部 11名(10隻) 第一中隊 中隊本部 4名(3隻) 第一群 9名(9隻) 第二群 9名(9隻) 第三群 9名(9隻) 第二中隊 第三中隊 と編成されていました。 戦術単位は一個戦隊、戦闘単位は一個中隊とし一コ群を行動の最小単位と定めていました。 見れば分かるように各艇乗員一名ですが、戦隊長及び各中隊長艇のみ複座の指揮艇で、装備としては機関短銃9挺-資料によっては4挺の説あり-に拳銃・軍刀・手榴弾などを装備していたようです。 海上挺身基地大隊については手元の資料が少ないので編成の詳細は判明しませんが勤務隊と整備中隊などからなり、兵力は約1000~900名であったと推測されます。 しかし、昭和19年11月に沖縄の第32軍から第9師団の台湾抽出が決定し翌年1月までに移転を完了、補充として本土から送られてくるはずの第84師団も一旦は派遣が決定したものの、本土決戦用兵力不足や海上輸送の危険性などから派遣中止となりました。 この為、沖縄本島の防備兵力不足と言う事態を招き第32軍は昭和20年2月12日に海上挺進基地大隊を特攻作戦上絶対必要な最少人員以外の勤務隊を主力として兵力を歩兵大隊に準じて独立大隊として編成し本島に抽出する事を決定しました。 作戦上必要と判断された勤務隊の一部と整備中隊主力は残置され海上挺身戦隊の指揮下に入り、また作業援助要員として本島から特設水上勤務中隊が来島し戦隊の指揮下に入った。 また島民の一般協力や防衛召集による防衛隊編成-集団自決用の手榴弾は防衛隊などの手から住民に配られたケースもある-など増強措置も執られたようです。 これらの部隊編成は 海上挺身基地大隊残置部隊 勤務隊(約150~200名程度?) 整備中隊(約50名程度?) 人員 合計で約200~250名 装備 重機関銃2 軽機関銃5 小銃約200 擲弾筒2 無線機 特設水上勤務中隊 第一小隊 第一分隊 第二分隊 第三分隊 第二小隊 第三小隊 人員 将校・下士官・兵 計40名 朝鮮人軍夫約250~300名 装備 小銃約40(朝鮮人軍夫は非武装) であったと推測されます。 各島の配備人員には差があるので員数については参考程度に願います。 なお、慶良間列島で編成した三個臨時独立大隊は沖縄本島で各兵団に配属され第一線部隊として配備されたが、編成上は歩兵大隊に準ずるものの充分な訓練期間もなく装備も小銃を中心としたものであった為苦戦したと言われています。 昭和49年に刊行された沖縄県史第10巻(沖縄県教育委員会編)では「鉄の暴風」以降の論旨を基本的に踏襲しているものも多く、○レ艇の出撃中止・自沈命令-暗にこれが集団自決を招いたと言いたいのか?-に関して戦隊長であった赤松大尉の責としていますがこれは事実ではなく、偶然にも米軍上陸時に戦備視察の為に来島中であった第11船舶団長(軍船舶隊長)大町茂大佐の指導と命令によるものでした。 むしろ赤松戦隊長はこの機を逃さず戦隊全力をもって来航した米軍艦艇への出撃を意見具申しています。 大町大佐の意図はこうであったと推測されます。 大町大佐は作戦指導の為に22日に那覇を発ち23日は座間味島、続いて24~5日にかけて阿嘉島の舟艇秘匿壕や訓練状況を視察指導したが、慶良間諸島への空襲は23日以来激しさを増し25日には猛烈な艦砲射撃を受けるに至った。 大町大佐は25日夜、阿嘉島から渡嘉敷島に移動し海上挺進第3戦隊(以後赤松隊)を指導したあと26日2330沖縄本島へ帰還の為出発したが途中遭難戦死したとされている。 一方渡嘉敷島の赤松隊は船舶団長の視察に備えて準備を行っていたところ23日正午過ぎより空襲を受け日没までに集落は全滅し、全頭至る所に山火事が発生した。 24日も早朝から艦載機が来襲し、赤松戦隊長は軍司令部より「甲号戦備-戦闘配備につき臨戦状態を整えること-を整えよ、米機動部隊は首里基点160度(南東)50哩の基点に接近しあるものの如し」と言う連絡を受けとった。 25日には艦砲射撃を受けるに至って敵の本格来襲と判断し2000頃独断で各中隊に部隊の1/3を泛水させると共に軍司令部に状況を報告し今後の処置について問い合わせた。 すると25日夜-2130頃?-に軍及び船舶隊本部より「敵情不明、状況有利ならざる時は戦隊を率い本夜中に本島に転進すべし」と言う命令を受けとった。 なお船舶特幹一期生会報第二号によれば「敵情判断不明、慶良間の各戦隊は状況有利ならざる時は所在の艦船を撃破しつつ那覇に転進すべし」と言う命令であったとされている。 命令を受領した戦隊長は各中隊長・群長と検討した結果、本島への全力転進を決め2200時に戦隊本部及び第二・三中隊に全艇の泛水を命じた。 第一中隊は湾内に敵駆逐艦進入し作業を妨害の為泛水不可能となる。 船舶隊長大町大佐が赤松戦隊の司令部に到着したのは2400頃-2200頃に本部に到着していたという説あり-であったとされている。 この大町大佐の到着により赤松隊の運命は一変するのである。 字数の関係でその2へ続く
by bosc_1945
| 2005-06-27 00:00
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